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東京地方裁判所 昭和33年(合わ)180号 判決

被告人 ジョセフ・ピー・クラウリー

一九〇九・八・九生 会社役員

主文

被告人は無罪。

理由

第一公訴事実

被告人は昭和三十三年五月八日未明東京都千代田区内幸町一丁目一番地帝国ホテル202号室において、トーマス・アルバート・ドワイト・ジョーンズ・ジユニア(THOMAS ALBERT DWIGHT JONES, Jr.)(当四十五年)(以下「ジョーンズ」と略称)に対し、酔余手拳を以てその顔面等を数回強打する等の暴行を加え、因て同人の両眼瞼、前額正中部、左側頭部、左耳介等に打撲傷を与え、同日午後三時三十分頃、同ホテル206号室において、前記打撲傷によつて惹起された外傷性硬脳膜下血腫に基く脳圧迫により同人を死に至らしめたものである。

第二裁判所の判断

(一)  被告人等が来日した経過及び帝国ホテル202号室の構造等について

第十六回公判調書中証人フレデリック・エム・キッセンジャー(FREDERICK M. KISSINGER)(以下「キッセンジャー」と略称)の証言記載、第二十回公判調書中被告人の供述記載によると、ジョーンズはT・A・D・ジョーンズ・カンパニーの社長である他、ニユーヘヴン・ターミナル会社社長、エキセロ会社及びジヨセフ・ピー・クラウリー会社の各副社長であり、被告人は右T・A・D・ジヨーンズ・カンパニーの副社長である他、右ニユー・ヘヴン・ターミナル会社副社長、右エキセロ会社及びジヨセフ・ピー・クラウリー会社の各社長であつて、被告人の妻はジヨーンズの実姉に当るものであるが、被告人とジヨーンズは共に日本国内におけるタンカー買付の可能性調査のため、昭和三十四年四月二十八日ニユーヨークを空路出発し、途中ハワイで一時滞在の後、同年五月五日来日したものである。右両名の来日に際しキツセンジヤーは会計顧問としてこれに随行し、右三名は来日以来ジヨーンズの死亡に至るまでいずれも前記帝国ホテル202―204―206号三室よりなるスイート(以下右三室を「202号スイート」と総称し、右スイートに属する各室を指す場合はそれぞれの番号によつて表示する。)に宿泊し、ジヨーンズ及びキツセンジヤーは206号室、被告人は204号室をそれぞれの寝室として使用していたことが明らかであり、当裁判所施行の昭和三十三年七月二十一日附及び同年十月二十一日附各検証調書及び司法警察員作成の検証調書によると、202号スイートは帝国ホテル旧館北側二階のほぼ南西端に位置し、同二階本廊下と丁字形をなす支廊下の突当りにあるドア(以下「第一ドア」と指称。)によつて外部と区切られているが、右第一ドアの内側は支廊下の延長(以下この部分を「内廊下」と指称。)となつており、その突当りにあるドア(以下「第二ドア」と指称。)の奥に202号室(居間)、内廊下を挾んで本廊下から向つて右側に206号、左側に204号室(いずれも寝室で各一組のツイン・ベツドを有し、トイレツト、バス等が附属している。)が配置され、内廊下と204、206号室、202号室と204、206号室はそれぞれドア(合計四個)によつて連絡されていること及び第一ドアの鍵はいわゆる「オートマチツクロツク」になつており、ドアを閉めることにより自動的に施錠され、内側からは「鍵なし」で開けることができるが、外側からは鍵を用いなければ開けられない構造になつていることがそれぞれ認められる。

(二)  ジヨーンズの死因並びに同人の負傷発覚前後の状況について

(1)  第六回公判調書中証人小野譲の証言記載並びに越永重四郎他一名作成にかかる鑑定書(以下「越永鑑定書」と略称し、他の鑑定書も以下同様の形式で略称。)によると、ジヨーンズが昭和三十三年五月八日午後三時三十分頃前記帝国ホテル号206室において外傷性硬脳膜下血腫に基く脳圧迫により死亡したことが認められる。

(2)  第十六回公判調書中証人キツセンジヤーの証言記載、同人の証人尋問調書(兼検証調書)、第六回公判調書中証人小野譲の証言記載、第二十回公判調書中被告人の供述記載及び司法警察員作成の検証調書並びに当裁判所施行の昭和三十三年十月二十一日附検証調書によると、ジヨーンズ、被告人及びキツセンジヤーの三名は昭和三十三年五月五日来日以来飯野工業株式会社の社員達と仕事上の会合をしたり、買物、見物等をしたりしていたのであるが、同年五月七日は夕方よりベン・エツチ・グイル(BEN H. GUILL)(以下グイルと略称。)(アメリカ合衆国海運庁副長官)等と共にパーテイに出席し、キツセンジヤーのみは午後十時頃一足先にホテルに帰つて就寝し、被告人とジヨーンズは右パーテイの後もナイト・クラブを一、二廻つて翌八日午前三時頃帝国ホテルに帰り、202号室において、キツセンジヤー及びグイル参加の下に、キツセンジヤー及び被告人はパジヤマ姿で、ジヨーンズはパンツ一枚で、暫く来日の目的である買付の対象となるべき船舶などについて話しながら寝酒を飲んだが、まもなくグイルは自室(202号スイートと同様帝国ホテル旧館北側二階にある238号室)に帰り、次いで午前三時三十分頃キツセンジヤー及び被告人がそれぞれの寝室に赴くため立ち上つた際、ジヨーンズはまだ半分位残つているウイスキーの瓶を持つて、キツセンジヤー及び被告人に対し、一緒に飲むように誘い、なおも独りでも飲み続ける様子で後に残つたこと、その後約二時間経過後の同日午前五時三十分頃、物音に目覚めたキツセンジヤーが202号室に行つてみたところ、同室内南西隅書机の前にジヨーンズがパンツ一枚を着用したのみの姿で、身体右側を下にして、同室の備品である高さ約百七十センチメートル、重量約十キログラム以上の木製フロアランプ(昭和三十三年証第九八八号の四)の下敷になり、ランプの笠の下の部分が同人の顔にのり、同人の左腕が軸の上にのつた形で倒れているのを発見し、直ちに同人を助け起し、206号室の同人のベツドに連れて行こうとしたこと、その際ジヨーンズは意識を失つてはいなかつたが、著しく酒気を帯びて居り、心身共に甚しく乱れた状態にあつたため、あちこちの家具類等に衝突し、容易に206号室に運ぶことができず、そのあげく、202号室入口附近に転倒したうえすわり込んでしまう有様であつたので、キツセンジヤーは204号室にいた被告人を呼び、その助けを借りて漸くジヨーンズを206号室のベッドに運び込んだこと及び被告人等はそこでジヨーンズの右眼が腫れ、左上口唇が切れていることを発見し、ホテル係員に医師の来診方手配を求め、この結果医師小野譲が来診し、単純な負傷と診断のうえ唇の傷を縫合し一旦帰つたが、同日午後五時三十分頃再び診察した際、ジヨーンズが206号室ベツドの中ですでに死亡しているのを発見したことが認められる。

(三)  争点及びこれに対する判断

ジヨーンズの死因が外傷性硬脳膜下血腫に基く脳圧迫であることは右に認定したとおりであるが、その原因となつた外傷について、検察官は被告人により行われた手拳殴打、足蹴と主張するに対し、弁護人はこれを否定しジヨーンズが酩酊のうえ前記フロアランプに衝突しこれと共に転倒したことにより生じた可能性が強い、仮にこれを犯罪死と認めるとしても被告人がその犯人であると認むべき証拠はないと主張している。よつて(1)ジヨーンズに存する創傷より観てその原因となつた外傷が如何なる機転により生じたと認めるの相当であるか(事故死が犯罪死か)、(2)犯罪死であるとして検察官主張の如く被告人がその犯人であるか否かについて、以下順次判断することとする。

(1)  ジヨーンズの死は事故死か犯罪死か

(イ) 越永鑑定書によると、ジヨーンズの死体は昭和三十三年五月九日東京都文京区大塚仲町三十八番地東京都監察医務院において解剖に付せられたのであるが、その頭部及び顔面に十一個所、頸部に一個所、胸腹部及び背部に四個所、左上肢に四個所、右上肢に三個所、左右下肢に七個所の生前の創傷の存したことが明らかである。しかしてジヨーンズが負傷後キツセンジヤーによつて発見され202号室より206号室に運び込まれた経過はすでに第二の(二)の(2)で認定したとおりであつて、前掲キツセンジヤーの証言記載等によると、その運び込みの過程において、すくなくともジヨーンズの背面、上下肢については家具類等との衝突等で相当数の創傷の生じたことは否定し得ないところである。この事実に越永、中館、清水、石田の各鑑定書殊に清水鑑定書中右上肢及び左右下肢の創傷は本人の転倒又はよろめき等で家具類等に衝突しても起り得る趣旨の記載(16頁)を綜合すると、これ等の創傷のうち相当数が右運び込みの過程で生じたものと認められる。

しからば、ジヨーンズの死亡が事故死であるか犯罪死であるかは、爾余の創傷すなわち頭部及び顔面、頸部、胸腹部、左上肢に存する創傷(以下創傷という語は特に指摘しない限りこの限定した趣旨で用いる。)について考察するのが相当である。

(ロ) よつて進んでジヨーンズの死体に存した前記創傷を生じた成傷器は何であるかについて検討する。

(A) 頭部及び顔面に存する創傷群

この部位には十一個所に創傷が存するが、清水鑑定書(8頁以下)によると、五群に大別することができ、第一群は左側頭部顔面より頸部にわたる広範な腫脹並びに皮下出血、第二群は右前額部にある腫脹部、第三群並びに第四群は両側の眼瞼部にある腫脹並びに皮下出血、第五群は口唇並びにその周辺にある創傷であることが認められる。しかして同鑑定書中「第一群は左側頭部顔面より頸部にわたる広範な腫脹並びに皮下出血であつて、これはこの皮下出血の認められる広い範囲への個々には数回の直接打撃でなく、一ヶ所の出血がこの範囲に拡がり得る。即ち左側頭部に於て、側頭筋並帽状筋膜下に出血すれば、それが該範囲に於ける粗造結締織間、殊にその出血が頭皮深部、帽状腱膜上の出血の際には出血の浸潤によりかくの如き状態を呈するのが常である。この際には出血が比較的深部であるため、最初のうちは外からはあまりはつきりと判らず、数時間乃至二、三日のうちにその側の顔面全部から、ひどい時には頸部にわたつて腫脹及び血液浸潤を認めるようになるのが普通である。これは小野証人の“朝診た時とまるで変つて夕方には顔面、両眼等がはれていた”という証言と一致するものである。即ちこの左側頭部、顔面にみられた第一群のような腫脹は左側頭部に受けた外傷(前記越永鑑定1)による外傷によつて生じた左側頭筋内出血が主な源であろうと考えられる。」「第三群並びに第四群は……該上眼瞼の皮下組織は粗造結締織であるため容易に他よりの出血が浸潤するところである。従つて比較的軽度の打撃でもそのようなことは起るであろう。又前記頭部の出血が浸潤して来ても可能であることである。」との記載によると、これ等の腫脹は別々のものではなく左側頭部に受けた外傷(越永鑑定書1)に基くものと認めてよいことを認定しうる。

(甲) 第五群にある左上口唇の挫創(越永1)

この挫創はジヨーンズの死体に存した創傷のうち後で指摘する左上肢に存する二重条痕を伴う創と共に特色のある創傷である。その成傷器については、越永(41頁)、古畑(14頁)、清水(14、18頁)、中館(10頁)、石田(9頁)の各鑑定書によると、いずれも「鈍体」の作用によるものであることは一致している。しかしてその具体的な例として古畑鑑定書は「いちばん適当しているのが手拳である」としているが、その挫創が「外皮まで完全に離断されている」ことを考えると、中館、石田の各鑑定書の指摘する如く手拳に基くものと認めるより「手拳よりは硬い」鈍器又は鈍体(稜角をもつ鈍器、鈍体をも含む)に基くものとみるのが相当である。従つて202号室についていえばフロアランプの軸と激突する等によつて生じ得たものと認められる(清水鑑定書20頁参照)。

(乙) 爾余の創傷

これ等の創傷は、切傷、割傷、表皮剥離等皮膚表面上の傷のない点からみて、「鈍体」の作用によるものと認められ、このことは本件のすべての鑑定人の意見の一致するところである。しかして右鈍体の具体的な例としては、各鑑定人とも「手拳」が最も考え易いとしている。この点につき中館鑑定書(31頁)は、「いずれも手拳殴打によつて生ぜしめられたものと推定される」とし、古畑鑑定書(13頁)は、「兇器として尤も考え易いのは手拳である」としているが、古畑鑑定書の趣旨が「手拳」にのみ限定するものでないことは証人古畑種基の証言記載(12問答)に徴し明らかであり、清水鑑定書(12頁)によると、手拳の外に「ソフアのかど」または「厚く敷いた絨毯」等の家具類等に強く打ちつけること等によつても生じうることを認めることができる。

(B) 左側頸部の創傷特に甲状軟骨左上角骨折(越永12)

越永鑑定書(7、17頁)によると、この部位には軟部組織間出血の甲状軟骨左上角骨折の存することが認められる。その成傷器については、清水鑑定書(15頁)によると、右出血は前記第二の(三)の(1)の(ロ)の(A)で認定した第一群の左側頭部に加えられた創傷による出血の浸潤したものであることが明らかであり、中館鑑定書(12頁)によると、右骨折は「攻撃面の滑らかな稜角をもたない鈍器、鈍体」によつて生じたものと推定しうることが認められる。後者の具体的な例としては、中館鑑定書は手拳をもつて強く殴打された場合が最も推定され易いとしているが、これに限定されたものとは解し難い。たとえば転倒により家具類等に強打した場合にも生じうるものと考えられる。

(C) 左上肢に存する創傷群

この部位には四個所に創傷が存するが、このうち成傷器の観点よりみて特色のあるのは左上膊内側に存する二重条痕(越永20)を伴う創傷である。

(甲) 二重条痕を伴う創傷

越永鑑定書(40頁)及び証言によると、前記二重条痕の長さは四・五センチメートル、幅はいずれも〇・三センチメートル、条痕間の間隔は〇・四センチメートルであることが明らかであり、中館(15頁)、石田(25頁)、清水(15頁)の各鑑定書によると、前記条痕はその間隔、長さにほぼ一致する硬い鈍体によつて生じたものであることが認められる。従つてこの創傷が手拳によるものでないことは明白である。

しかして証拠物件として提出されているフロアランプの軸が前記条痕を惹起しうる鈍体の一であるか否かについては、中館鑑定書は右フロアランプの軸の稜角部に衝突することによつても生じうるとしているのに対し、石田(24頁以下)、清水(15頁以下)の各鑑定書は、越永重四郎の作成した二重条痕の組織標本によると二つの条痕の間の上皮組織は条痕の端から端まで一様に圧縮挫滅され、その中間に健常部分のないことを理由に二重になつた稜角をもつ右フロアランプの軸ではできにくいものであるとしている。しかし石田、清水鑑定書もフロアランプによる可能性を全面的に否定するものでないことはその記載に徴し窺知できる。しかして前記条痕を含むジヨーンズの受傷場所が202号室か或は同室外かは後で検討するところであるが、仮りに可能性の多いと認められる同室内における受傷として考えてみるに、前掲各検証調書及び証人竹谷年子の証人尋問調書(兼検証調書)により問題の日時頃202号室内に存したと認めうる諸物件を検討するもこの条痕を惹起しうるものは問題のフロアランプ以外には存在しなかつたことが認められる。これ等の状況を斟酌すると、同室内における受傷である限り中館鑑定書を採用するのが相当であると考えられる。

(乙) 爾余の創傷

清水(15頁)、中館(15頁)の各鑑定書によると、爾余の創傷はいずれも鈍器によつて生じたものであることが認められる。

(D) 左胸部の左肺実質内出血を含む小児手掌面大(八・〇センチメートル×五・〇センチメートル)の皮膚変色部(越永13)

越永(7、16頁)、中館(12頁)、清水(19頁)、石田(9頁)の各鑑定書によると、左側胸部には厚層の皮下出血があり、更に左肺には肺肋膜より実質内に及ぶ広範な範囲の出血巣が認められ、しかも肋骨々折を伴つていないことから加撃物体の衝撃面積の大きいことが想像され且つその創傷の大きさが小児手掌面大の瀰漫性の出血であるところからそれにほぼ近い大きさの鈍体の打撃で、かなり強大な外力(鈍力)の作用と認められる。具体的には手拳殴打、足蹴、踏みつけ、またはソフアのかどとか種々の器物と衝突した場合などが考えられる。

(ハ) ジヨーンズの死体に存した前記創傷と前記硬脳膜下出血との関係について、清水鑑定書(17頁)は、「硬脳膜下出血は、左側頭皮に見られた強い出血及び前額部の血腫等を受けた時の打撃又は上口唇に加えられた打撃などの、いずれかによるものであろうが、そのいずれの際であるかを判定することは不可能で、又、他の可能性として、上述の如く、傷を生じなかつた衝撃によつても硬脳膜下血腫の原因になつて差支ない」としている。しかして越永鑑定書(42頁)は、右創傷のうち顔面、特に左半側及び左側頭部、左側胸部、左上肢、右肘関節部の傷はいずれも鈍体の強烈な作用によるものであるが、その他はいずれも鈍体の軽度の作用によるものであるとして居り、この記載によると、ジヨーンズの死体に存する創傷で鈍体の強烈に作用しているものは左側頭部及び顔面、左側胸部、左上肢と概ね左側に偏在していることが認められる。このことは注目すべき事実である。

(ニ) 以上の考察により、ジヨーンズの死体に存した創傷が外傷性のものであることは明らかになつたが、その成因である打撃或は衝撃(外力)が具体的には何であるかについては、解剖所見のみによつては鈍体によつて生じたものとして前記認定の程度のことを認定しうるに止まり、それ以上には如何なる機転によつて生じたものであるか、これは確定し得ないところである。清水鑑定書(18頁)が硬脳膜下血腫についてではあるが、「本例における硬脳膜下血腫が外傷性のものであるという事は確実であるが、いかなる原因「手拳による打撃、衝突、転倒」によるかは、断定する確実な根拠がない」としているのは創傷の全部についていえることである。

しかしながら、前記認定の事実殊に第二の(三)の(1)の(ハ)に照らし明らかであるように、ジヨーンズの死体に存した創傷には重い傷がいくつか認められる。しかしてジヨーンズはさきに認定したとおりキツセンジヤーに発見された当時高度に酩酊していたのであるから受傷時には蹣跚状態で身体の平衡保持不能の状態に陥つていたものと推測されるのであるが、かかる者が転倒、受傷をくり返し、ついに死亡にまで至るほどの創傷を受けるまで何回も強い打撃を受けるべく立上つたとみることは、特別の事情がない限り、清水(20、25頁)、石田(21頁)の各鑑定書が説明しているとおり酩酊者の心理並びに生理よりして不可能なことである。これら重い創傷の多数性などこれら創傷をめぐる環境等を彼此綜合すると、これらの創傷は他為的に生ぜしめられたものと認めるのが相当であつて、一般的には犯罪死の事件として認むべきものである。

しかし、前記認定事実殊に第二の(三)の(1)の(ロ)の(A)、(C)によると、右創傷のうち左上口唇の挫創及び左上肢の二重条痕を伴う創傷には証拠物件として提出されているフロアランプが関係している可能性が認められ、これにジヨーンズがその負傷後キツセンジヤーによつて発見されたときの状況すなわちジヨーンズがフロアランプの下敷になつてランプの笠の下の部分が顔にのり左腕が軸の上にのつた形であつた事実を斟酌すると、ジヨーンズが左腕でフロアランプの軸を巻きつけるようにして抱え込み転倒した可能性は否めないところである。この場合前記左側頭部及び顔面、左耳介部、左胸部の創傷がフロアランプとの激突によつて生じるか否か。この点につきオスカー・ビー・ハンター・ジユニアー(OSCAR B. HUNTER, Jr.)(以下ハンターと略称)は全面的に肯定するのであるが、ハンターの説明する創傷惹起の推定機転(プロセス)には全面的に理解し得ないもののあることは中館(24頁以下)、清水(22頁以下)、石田(20頁以下)の各鑑定書の指摘するとおりである。しかし、ジヨーンズは前記認定のとおり高度の酩酊により甚だしい蹣跚及び均衡失調状態にあつたものと推測され、かかる場合には何かの「はずみ」で普通では予想もできないような経過をたどることは往々ありうるところであり、しかも右の如き抱え込みの形態による転倒の場合にたどる経過はハンターの説明が唯一無二のものとは断定できない。この場合、稀有なことかも知れないが、前記左側頭部等に一連の受傷の可能性は絶無といいうるのであろうか。この場合においても右転倒は自為的になされる場合と他為的になされる場合のあることは勿論である。

(ホ) 前掲検証調書及び証人竹谷年子に対する証人尋問調書(兼検証調書)によると、昭和三十三年五月八日ジヨーンズの負傷後202号室には内廊下より入つて右側廊下寄のアームチエアの左肩口附近、その背後の壁、チエアと壁の間の床附近及び右チエアの反対側ベランダ寄のカーテン等に血痕またはその飛沫が附着していたこと及びチエアの前に置いてあつたコーヒーテーブル上のアイスボールやチエアの横に置いてあつたサイドテーブル上の電気スタンドがこわれていたことが認められる。

室内の右状況を観ると、アームチエアを中心として乱闘が行われたとも推測しうるのであるが、キツセンジヤーは、同人が第二の(ニ)で認定したように五月八日午前五時三十分頃ジヨーンズの転倒しているのを発見し、これを206号室ベツドにさきに認定したような経過で運び込んだ際、ジヨーンズが家具類に衝突したり206号室入口附近に転んだため、テーブルの上にあつたアイスボール、電気スタンドをこわし、その間ジヨーンズの血が吹き出し、カーテン、壁、家具類並びに被告人及びキツセンジヤーの着ていたパジヤマ等に付着した趣旨の供述をなし、これを否定する証拠はない。

従つて室内の右状況からは他に証拠のない限り前記認定すなわち事故死か犯罪死かの認定にいずれとも影響を及ぼす判定をすることは困難である。

(2)  被告人は犯人か

(イ) 以上の考察にして、若しジヨーンズの死因が事故死以外には全く考えられないというのであるならば、犯罪は客観的に不成立となるから、他の証拠について判断するまでもなく、被告人に刑事責任のないことは明白である。しかし、以上で認定したところでは、事故死の可能性も否定できないけれども全面的にこれを肯定することは困難で、一般的にはそうでない場合の可能性が大きいと考えられるのであつて、本件が終局的にはそのいずれであるかは更に他の情況証拠について考察する必要がある。しかして検察官は右は被告人の犯行に基くものと主張し、被告人はこれを争つているのであるから、検察官並びに被告人の主張に副い被告人の行動を精査しその中にいずれかに決定しうる契機があるか否かについて以下検討する。

(ロ) 受傷の場所等より観た場合被告人に存する嫌疑の有無並びにその程度

(A) 受傷の場所は202号室に限定できるか

ジヨーンズの受傷は、一般論としては、(1)室(202号室、以下同じ。)内のみ、(2)室外のみ、(3)室内及び室外の三つの場合が想定されるのであるが、前記で認定した事実殊に当時ジヨーンズはパンツ一枚で室外を出歩くような服装でなかつたこと、ジヨーンズの創傷中皮膚の破れているのは左上口唇のみであること、202号室における血液の付着状況、キツセンジヤーがジヨーンズの倒れているのを発見し、これを206号室に運んだ時の状況、202号スイトの内廊下は勿論同スイート外の廊下等にはジヨーンズの血痕と思われるものが存しないこと及びジヨーンズに存する創傷には重い傷がいくつか存しこれに酩酊状態を考えると受傷後あまり歩行することは生理上困難と認められること等を綜合すると、202号室において受傷した可能性が極めて強い。

しかしながら、証人キツセンジヤーの第十六回公判調書(35問答以下)、第十七回公判調書(38問答以下)、第十九回公判調書(93問答以下)中の各証言記載及び被告人の検察官に対する昭和三十三年六月九日附供述調書によると、ジヨーンズは強い近眼で日常眼鏡をかけていたものであつて、五月八日午前三時三十分頃キツセンジヤーが就寝する頃も眼鏡をかけていたのであるが、同日午前五時半頃キツセンジヤーがジヨーンズの倒れているのを発見し206号室のベツトに運んだときには眼鏡をかけていなかつたことが認められる。しかして一件証拠を精査しても、ジヨーンズが日常使用していたというその金属性の縁の眼鏡の存在は明らかでない。この観点よりみると、ジヨーンズは室外で受傷したのでないかという疑問も成立しうる。もつとも、第十九回公判調書中証人キツセンジヤーの証言記載(89問答)、第十回公判調書中証人山本啓二の証言記載、同人作成のジヨーンズの遺品リストによると、キツセンジヤーが山本啓二と共にジヨーンズの遺品を米国に送り返すため整理した際、三個の眼鏡ケースの存在したことはたしかであり、この際同人等が右眼鏡ケースを開けて中まで調べたものでないことは是亦同証言記載により認めうるから、或は問題の眼鏡がその中に含まれていたかもしれぬということは考えられる。また一件証拠によると、五月八日朝ホテルではいち早く損害を調査すると共に室内の血痕を拭き取り血痕のついた絨毯を取り替えてクリーニングし、こわれたアイスボール・アイストング等を取り片附けてしまつたことが認められるから、そのときホテルの従業員が不用意にも捨て去つたかも知れない疑もある。従つて右問題の眼鏡の存在が明らかでないからといつて直ちに前記室内受傷の可能性を覆しジヨーンズが202号スイート外で受傷したものとは断定できないが、さればといつて絶対に室外でないということもできない。

(B) 推定受傷時刻頃202号室は密室であつたか

(甲) 202号スイートの第一ドアの錠がドアを閉めると自動的に施錠され外部からは鍵を使用しなければ開かない構造になつていることは前示認定のとおりである。しかし問題の当時第一ドアが完全に閉められて施錠されていたかどうかについては次の如き疑がある。すなわち、第二回公判調書中証人小林幸吉及び同新田征司の各証言記載を綜合すると、五月七日夜は夜勤のページボーイとして小林幸吉、新田征司他二名が前記ホテル一階のフロントオフイスに待機していたが、八日午前三時頃小林が202号スイートから電話で註文を受けて新田がソーダを届け、その時同人は更に氷の註文を受けて再びこれを届けたが、その後同日午前三時半頃202号スイートから海外電話申込用紙の註文があつて小林がこれを持つて行つて居り、同人が現在判明して居る受傷発見前における最後の出入者であることが認められる。しかして証人小林の前記証言記載及び同証人の第二十九回公判期日での証言によると、同人は、日常の執務では202号室の如きオートマチツク・ロツクの客室より退室する際、一般的に、部屋に客がいない時はドアを確実に閉めるが、客が居る時は再三再四用事をいいつけられその度にドアの開閉について一々客に煩わさなければならぬことを慮り、鍵が完全にかからない程度にドアを閉めて置く習慣のあること、同人等は問題の五月八日午前三時過より同三十分頃までの間前後三回に亘り202号スイートへ行つて居り海外電話申込用紙を届けたのが最後となつているが、当時同室には三人の客(ジヨーンズ等)がまだ起きていてその中ジヨーンズがグラスを手にして酒を飲んでいるのを見ていることが認められるから、小林としてはその後まだ用をいいつけられるかもしれぬと思つていたことがないとはいえない。以上のような情況からすると当時小林幸吉が202号スイートを出る時完全に第一ドアを閉めて来たかは極めて疑わしいものと考えられる。

(乙) 更に、右第一ドアが完全に閉められていたものと仮定しても、証人キツセンジヤーの第十六回公判調書(特に49、131問答)、第十九回公判調書(特に25問答以下)中の各証言記載及び第二十回公判調書中被告人の供述記載を綜合すると、同人等三名は宿泊以来ホテルから一個の鍵(第一ドア用)を受け取り、三人の間で、外出する時は、最後に室を出た者が鍵をフロントデスクに預け、又外出から帰つた際は最初に入室した者が後から帰る者のために鍵穴に鍵を入れたままにしておくという諒解をしていたが、五月七日午後十時頃キツセンジヤーが前記第二の(二)の(2)で認定のとおりレストラン「花の木」より一足先に帰つた際同人は右諒解どおり鍵穴に鍵を入れたままにしておいて就寝したことが認められる。しかして第二十回公判調書中被告人の供述記載によると、被告人は五月八日午前三時頃ジヨーンズと共に帰つて来たときには鍵は鍵穴に入れたままにしておいた旨供述して居り、且つ第十四回公判調書中証人グイルの証言記載によると、同人は五月八日午前三時過頃202号スイートに入つた除鍵穴に鍵が入れられたままにしてあつたのを見た旨述べている。しかるに、ジヨーンズの受傷が発見された前と後に該る五月八日午前三時半頃と午前五時半頃202号スイートに出入したホテル従業員達が当公判廷において証言したところを仔細に検討するに、いずれもこの点につき明確な記憶を失つて居り、被告人、グイル等の前記各供述を確実に覆すまでの心証は惹起しない。しかしてホテル従業員達の当公判廷での証言(証言記載を含む)によると、同ホテルで滞在中の客には鍵を鍵穴に入れたまま放置している者が存し、かかる事例は稀有のことではないことも認められる。これ等の事実を彼此考察すると、第一ドアに鍵が差し入れられてはいなかつたものとは軽卒に断定し得ないものがある。

(丙) 司法警察員作成の検証調書、当裁判所施行の昭和三十三年七月二十一日附検証調書、第四回公判調書中証人中田耕象の証言記載、証人竹谷年子の証人尋問調書(兼検証調書)等によると、問題の当時202号スイートには第一ドア以外の入口(窓、202号室南側のベランダ等)から第三者が侵入する可能性は絶無に近い状態であつたと認められる。しかし以上(甲)・(乙)に判示した如く、第一ドアを通じて第三者が侵入することはすくなくとも物理的には可能であつた疑があるものといわざるを得ない。

ところで、検察官は仮りに右のような可能性が認められるとしても、当時202号スイート附近を巡回した夜警池田鎌吉が附近に人影がなかつた旨証言しているから、そのような可能性のあることから直ちに第三者が侵入したとの推論は許されないと主張するのであるが、夜警の巡回時間に人影を認めなかつたといつてその他の時間にまで202号室附近に人が居なかつたと推論することの方が却つて不合理であり、現に以前ホテルに滞在していたアメリカ人トーマス・エー・ハイアム(THOMAS A. HIAM)が昭和三十一年五月五日頃深夜酩酊のうえ同ホテル外で負傷し同ホテル旧館南側一階127号室に帰着した際にも同ホテルの従業員でこれに気付いた者はいなかつたと認められる事実(弁護人は右ハイアムが右127号室で何者かに襲われたものであると主張しているが当時の状況殊に内鍵がかかつていた事実からみてそのような仮説を容れる余地はない。)に徴しても、ホテル関係者の関知しない間にホテル外からホテル内の一室に入りうる可能性は実証されているのであつて、検察官の主張はにわかに採用し難い。

しかしながらこのような可能性が存したとしても、現実に或る目的を持つた第三者が202号スイートに侵入しようとしていたと認むべき具体的な証拠に乏しいので、ジヨーンズの死に関係がある者がいるとすれば202号スイート内部の者に嫌疑が濃厚に残ることはけだし止むを得ないところであろう。この点に関し、弁護人は、「エル・ゼツト・フエイゲンソン(L. Z. FEIGENSON)は昭和三十三年四月二十八日以来202号スイートに近い216―220号室に宿泊し、帝国ホテルとの間に五月十八日まで宿泊の予約をしていたのに、ジヨーンズの死亡直後五月九日の正午突如出発して居り、しかも216号室絨毯上に人血痕が二滴存している。これ等の諸事実に徴すると同人には極めて嫌疑が強い」旨主張している。しかして第十二回公判調書中証人高橋伝治郎の証言記載によると、フエイゲンソンが弁護人主張の日時にその主張の部屋に宿泊し、同ホテルとの間にその主張の如き宿泊の予約をしていたこと、同人が五月九日突如右予約を取消し同日正午頃同ホテルを出発したことが認められ、司法警察員中田耕象作成の昭和三十三年六月九日附検証調書によると、丸の内署員において昭和三十三年六月六日216―220号室を検証した結果216号室絨毯の上に人血痕二滴の存在を認めたことが窺知できる。よつてまず216号室の血痕について考察するに、越永鑑定書によれば、被害者ジヨーンズの血液型はBN型であると認められるのに対し、片桐鑑定書には、216号室に存した血痕はO型反応を呈した旨記載されている。しかし片桐鑑定書及び第五回公判調書中証人片桐悦子の証言記載によると、216号室の血痕は極めて微量であつたため右血液鑑定においては型的吸着が十分行われたかどうか解らないので、該血痕がO型であると断定することは困難であるとしているから、右血痕がジヨーンズのものでないと即断することはできない。さりとて両者が同一のものであると断定するに足る資料もない。しかし前掲昭和三十三年六月九日附検証調書においては、216号室より202号室に至る間の本廊下等についてルミノール反応実験をしたが、その反応は認め得なかつたとしているから、この点からはジヨーンズが216号室において負傷したと考える根拠に乏しいものといわざるを得ない。次にフエイゲンソンが日程を突如変更した点は、一件証拠によつては、同人が何故日程を変更したかにつき釈然としない個所もあるのであるが、前掲証人高橋伝治郎の証言記載によると、フエイゲンソンは同ホテルに投宿以降問題の五月八日以前に数回に亘り滞在日程を延長若しくは短縮したことが明らかであつて、この経過から考えると、同人には営業上等の事由で右予約に拘らず中途でこれを変更すべき事由が起つたとも推測されるから、他に立証のない限り、弁護人主張の如く五月九日の日程変更とジヨーンズの死亡との間に因果関係ありと認めることは早計である。

(ハ) 被告人の身体に存する創傷、同人の行動等より観た場合被告人に存する嫌疑の有無並びにその程度

(A) 被告人の左手に存する創傷

検察官は、被告人の左手には昭和三十三年五月九日頃左親指捻挫症兼同側手背部挫創が存し、この左手背部挫創はジヨーンズに対して暴行を加えることによつて生じたものであると主張する。しかしてこの創傷については、医師大村淳の診断、医師浜口栄祐の鑑定書、医師糟谷清一郎の診断書、石田鑑定書(鑑定嘱託は二回に亘つてなされ、その結果は第一回目が昭和三十四年一月十一日附書面で、第二回目が同年五月二十日口頭でなされている)及び鑑定人水谷兼晃、同水町四郎の各鑑定が存している。

(甲) 大村淳作成の診断書(形式上は大村幸一名義)及び第五回公判調書中証人大村淳の証言記載によると、大村淳は参議院の診療所に勤務している医師であるが、父である大村幸一が丸の内署の嘱託医である関係上、昭和三十三年五月九日午後八、九時頃丸の内署員の求めにより丸の内署で被告人の手を診察したこと及び大村淳は右診察において被告人の左手背部に中等度の腫脹と左親指に軽度の運動障害を認め、病名を「左拇指捻挫症兼同側手背部挫創」と判定し、今後約一週間の治療を要すと診断したことが明らかである。しかして右創傷の程度については、第四回公判調書中証人石渡次郎の証言記載によると、同人は警視庁警部で右五月九日丸の内署で被告人の手を見たのであるが、その左手の甲が真赤になつて腫れていた旨供述している。これに対し、右大村医師は第五回公判期日において、左手背部については、軽く腫れている程度で腫れは比較的軽い、その皮膚の着色変化は殆ど認められない、本人は自覚症状を殆ど訴えていない、熱感は殆どない、左親指については、運動するときに軽く痛む程度位の障害であつた旨証言し、第十一回公判調書中証人依田弘の証言記載によると、同人は警視庁主事で石渡警部が被告人の手を見た際通訳として立会つたものであるが、被告人の左手は右手より少し違い腫れていた様に思う。その左手の腫れは右手と見比べると判る程度のものであつて、被告人が手が痛いと訴えていた記憶はない旨供述し、第四回公判調書中証人中田耕象の証言記載によると、同人は本事件当時警視庁警部補で丸の内署捜査係長であつたもので、五月八日夜小野医師からの電話によつて直ちに部下と共に帝国ホテルに赴き同夜ジヨーンズの死体検視をなし、翌九日同ホテルにおいて202号室の捜索差押及び実況見分をなすと共に被告人の下調に当り、その後前記石渡警部等と共に被告人の取調その他本件の捜査に従事していたものであるが、被告人の左手につき、石渡警部からいわれて特別気をつけて見たところ腫れているということが判つた旨供述し、第十四回公判調書中証人グイルの証言記載によると、同人は五月十一日被告人が警察より帰り係官から左手が腫れているといつて疑われていると言つたので直ちに被告人の左手を見たところ、確かに視指は僅かに腫れていたが、別に何の傷痕もなく、他に腫れているところはなかつた旨供述している。石渡証言は大村証言等と比較しにわかに措信し難い。

(乙) 前掲浜口鑑定書及び第九回公判調書中証人浜口栄祐の証言記載によると、浜口栄祐は古川検察官より被告人の身体の傷害の有無等について鑑定の嘱託をうけ昭和三十三年六月六日被告人の身体を検査したものであるが、左手関節背面から同手背に亘り小児手掌大(直径約五センチメートル)の瀰蔓性発赤・腫脹を伴う挫傷が存し、同挫傷は相当強力な鈍性外力が直接作用したものであり、その発生時期は一週間―二カ月の間の過去と考える。なかでも一カ月内外の過去に生じた可能性が大きいと鑑定していることが明らかである。

浜口鑑定中発生時期を一週間―二カ月以内、殊に一カ月以外としている点については、清水、石田の各鑑定書によると、発生時期を一カ月内外と断定することは医学的見地からはむづかしいことであまり確率性のないことが認められる。

浜口鑑定が行われた昭和三十三年六月六日における被告人の手の状態については警視庁刑事部鑑識課技師藤沢智外一名の撮影に係るカラーと白黒の写真が昭和三十四年五月十五日証拠に提出されている。この写真と鑑定人石田正統の当公判廷における供述とによると、写真の上では左手背部には発赤、腫脹等の異常は何ら認められない。

(丙) 糟谷医師は昭和三十三年七月十八日被告人の求めにより、石田医師は同年十一月二十八日裁判所の鑑定嘱託により、いずれも被告人の手をX線により撮影しているのであるが、石田鑑定は糟谷博士のX線所見をその資料に加えたうえなされたものであつて次のことが明らかになつている。すなわち、同鑑定書(特に16頁以下)によると、左手親指の基節骨の基底部関節面にこれを中心とした挫創の既往像、左第三、四中手骨の基底部に近く向い合つた骨膜の肥厚突出の像の存することが確認される。しかして水谷鑑定、水町鑑定によると、同鑑定人等も糟谷、石田医師撮影の前掲X線写真を観察したうえいずれも左第三、四中手骨の基底部に石田医師指摘の像を認めているが、これは「骨膜の肥厚突出」というより「骨の異常隆起」と表現するのが適当であるとしている。

しかしてこれ等の像の発生時期等について、左手親指の既往像については、石田鑑定書によると、糟谷診断時のX線像と石田鑑定時のそれとを比較のうえ、その骨の変化等からみて、本事件すなわち昭和三十三年五月八日以前のものと考えるのが相当であることが認められる。左第三、四中手骨の基底部に認められる骨の異常隆起(石田鑑定では骨膜の肥厚突出)については、石田鑑定書は、これは一般には中手骨間筋の損傷や骨膜剥離等によつて生ずるものと考えられ、その変化は骨膜損傷により生じた石灰沈着像であつて、通常受傷後五、六週間経過すれば形成されるものである。この変化は糟谷診断時のX線写真にもすでに認められているものであり、七月十八日と十一月二十八日では殆ど差異が認められない。従つてこの化骨形成(水町鑑定によれば骨化)は極論すれば数年以前のものであつてもよいし、また浜口鑑定より三ヶ月以前の受傷であつてもよいとして居り、水町鑑定は、骨の異常隆起はこの部位に骨間筋の損傷等による刺戟が加わることによつて生ずるものであつて、弱い刺戟によるときは長年月の間に絶えずくり返されることによりいつとはなしに生じ強い刺戟によるときは一回の刺戟によつても生じ、後者の場合には成因発生後二ないし四週間でその部位に異常隆起を認めうるとなし、水谷鑑定は、これ等の隆起は水町鑑定にいわゆる弱い刺戟によつて生ずるのが通常で、強い刺戟によつて生ずることについては否定はしないがその可能性は極めて稀であるとしている。ところで、本件においては、右異常隆起がいわゆる強い刺戟と弱い刺戟のいずれによつて生じたか、その時期はいつであるかが問題となるのであるが、糟谷、石田医師によつて各撮影されたX線像自体によつてはいずれにも断定することは困難である。この点に関し、石田鑑定書は、「容疑者(註、被告人)には……五月九日に左手背に腫脹があり(大村診断書)、更に一ヶ後にも同部に腫脹が認められ(浜口鑑定書)、更に一ヶ月後には外見上治癒して居りながら(糟谷診断書)、その時のX線像には前述の如き石灰沈着像が認められたことを考え合わせれば容疑者の受傷が本事件の頃に発生したとする推定の可能性は大きい。しかも事件の数日前に帝国ホテル浴室に於て左基節骨背面を強く打つたとの自供があることを思えば、以上の推論は更に確実性があると言えよう」としているのであるが、その基礎となつている浜口鑑定書には前記認定の如き疑が存するので直ちに採用し得ないものがある。その上に、鑑定人石田正統、同水町四郎の当公判廷における各供述によると、前記骨の異常隆起(石田鑑定では石灰沈着像)の成因が瀕回でない強い刺戟による骨間筋の損傷等であつた場合、これが身体に現われる現象は通常強い腫脹、痛み、熱感、発赤であつて、腫脹はすくなくとも受傷時より一、二日ないし二、三日の間が最高潮であることを認めることができる。しかるに、被告人については、若し同人において犯行を行いそのとき骨間筋の損傷等が生じたとせば、大村医師によつて受けた前記(甲)で認定した診断はその受傷時より約四十時間を経過した時刻になるのであるが、その診断所見はこの場合見られるであろう前段認定の所見とは著しく異つていることを認めざるを得ない。この観点よりみると、右骨の異常隆起の成因は大村診断で認められた腫脹等の成因とは別で本事件の頃よりも古いものではないかという疑も存する。殊に水町鑑定、水谷鑑定によると、スポーツマンにはいわゆる弱い刺激により骨の異常隆起の生じる可能性があり、これに被告人の運動経歴並びに水谷鑑定、水町鑑定により認めうる被告人の左右両指には問題の左第三、四中手骨にある異常隆起の他、基節骨に十一個所の異常隆起があり、これらはいずれも前記弱い刺激によりできている事実を合せ考えると、その運動中問題の個所に斯る異常隆起形成の原因が発生しなかつたとは保証し得ないところである。

(丁) 以上の認定事実によると、被告人の左手親指に存した既往像並びに左第三、四中手骨の基底部に存した骨の異常隆起(石田鑑定では石灰沈着像)を起した原因が本事件すなわち昭和三十三年五月八日当時加えられたという認定は困難である。しかしさきに(甲)で認定したとおり被告人が同年同月九日当時大村診断で認められた部位、程度の負傷をしていたことは動かし得ない事実である。

その負傷時期について、検察官は本件によつて発生したものであると主張するに対し、被告人は昭和三十三年四月下旬ハワイで波乗板に乗つた際と同年五月七日頃帝国ホテルの浴室で突指をした際に手を痛めた旨争つているのである。検察官はこの点につき更に(1)被告人は来日後本事件前にナイトクラブ紅馬車その他でダンスし、東京温泉で全身マツサージをうけているが、どこでも左手の故障を訴えていない。(2)被告人は事件の翌日である五月九日丸の内署で石渡警部に取調をうけた際終始左手をズボンのポケツトに入れて隠していた。これらの事実は左手背部の挫創が本事件によつて生じた証左である旨主張している。しかして第九回公判調書中証人田中和歌子、第十回公判調書中証人西川順子の証言記載によると、検察官主張(1)の事実は認められるが、前掲大村証言によつても明らかなとおり被告人は五月九日当時その傷害については痛みを訴えていなかつたものであるし、そのことは当時の負傷そのものより観ても故ら仮装していたものとは認められぬところであり且つ大村診断と被告人主張の受傷時期との近接性等に鑑みると、検察官主張の事実があつたとしても直ちにその以前に挫傷がなかつたとは断定できない。また前掲石渡証言によると、同人が五目九日丸の内署で被告人を取調べた際被告人が左手をズボンのボケツトに入れたままであつたのでその手を出させてその負傷を発見したこと及び、被告人がその後においては左手をズボンのポケツトに入れなかつたことが認められる。この事実は見方によつては疑いうる資料の一ではあるが、これをもつて決定的のものとすることは困難である。一方被告人は当公判廷において、同人はさきに記載したとおり四月下旬ハワイで波乗板に乗つた際と五月七日頃帝国ホテルの浴室で突指をした際左手を痛めた旨終始供述し、これを虚偽の陳述として否定し去る証拠はない。斯る場合旧疾に軽い刺激が加わり軽度の再発的腫脹の生じる可能性は考え得られないではない。

(戍) 以上の認定に照らすと、大村診断で認められる挫傷等の成因及び時期については、検察官の主張が真相に合致するのか被告人の主張が事実なのかいずれも正しいのか、いずれとも判定できない。しかし右挫傷等はジヨーンズの身体に存した前記認定の創傷を惹起した行為によつて生じたものとしてはこれ等創傷と比較するとき軽度に失するのではないかという疑がないではない。(もち論後で認定するとおりこの場合創傷が生じ且つその程度の重いことは必ずしも絶対に必要というのではないけれども。)

(B) 千ドル相当の日本円(三十六万円)交付問題

昭和三十三年五月八日医師小野譲がジヨーンズを診断し治療をしたことはさきに認定したとおりである。しかして前掲証人小野譲、同キツセンジヤーの各証言記載によると、キツセンジヤーが同年同月九日午前一時頃被告人の承認の下に小野医師に千ドル相当の日本円(三十六万円)を交付したことが認められる。

右金員の授受について、検察官は被告人が犯行を行つているため、その事実の発覚の隠蔽手段として、「もみ消し」のために交付したものであると主張するに対し、弁護人はこれを否認し寄付的謝礼であると主張している。

前掲証人小野譲、同キッセンジャーの各証言記載、第四回公判調書中証人中田耕象(司法警察員警部補)、第十一回公判調書中証人渡辺富雄(東京都監察医)の証言記載並びに渡辺富雄作成の死体検案調書、中田耕象作成の検視調書によると、昭和三十三年五月八日午後五時三十分頃小野医師の診断によりジョーンズの死亡が確認され、爾来202号室にはグイルその他の米人関係者や米国領事パターソン等が相次いで集まり、午後八時十分頃には小野医師の報告により丸の内署勤務の中田警部補以下係員もこれに加わり、午後十一時には東京都監察医による死体検案、次いで丸の内署係員による検視が行われ、翌九日午前零時二、三十分頃ジョーンズの死体は解剖のため帝国ホテルより東京都監察医務院に運ばれたことが認められる。

前掲証人小野譲、同キッセンジャーの証言記載によると、小野医師がジョーンズの負傷について診断したのはさきに第二の(二)の(2)で認定したとおり死亡を確認した最後の診察を含め前後三回で、第二回目には左上口唇の挫創に縫合手術を行いペニシリン注射その他の医療措置を講じたこと及び第三回目の往診によつてジョーンズの死亡確認後は引続き202号室に止まり翌九日午前一時過頃までの間同所で被告人等の相談にのつたり見舞客に死因の説明をしたり等して被告人等のために好意に満ちた行動をしたことが認められる。

問題の千ドル相当の日本円(三十六万円)は右の如き状況下でキッセンジャーが同人主導の下に被告人の承認を得て小野医師に贈つたものである。この場合未だジョーンズの死が犯罪に基くものとされているわけではないが、死因に疑あるものとして司法警察員により検視がなされている時である。斯る時期に被告人が死因判定につき有力な資料の一を握つている小野医師に対し千ドルという僅少とは言えない金銭(同医師の前記二回に亘る往診、治療費としてはその都度日本円で四千円及び八千円を交付済みである。)を贈つたことは、一般的には検察官主張の如く疑をさし挾む余地は相当にある。しかし、ここで看過できないことは、右認定事実によつても認めうるところであるが、医師は治療を実施すれば直ちに患家を引揚げてよいのに、小野医師は第三回目の診断後死体検案等があつたとはいえ爾来翌九日午前一時過頃までの間八、九時間に亘り帝国ホテルに残り被告人等のためにも種々尽していることである。被告人等は当時故国を離れ知人も極めて少い異国にあつてそれまで一面識もなかつた小野医師によつて示された右行為に対し深い感謝の念をいだいたであろうことは看取するに難くない。しかも前掲キッセンジャーの証言記載並びにキッセンジャーが本件の捜査中検察官に提出していたパシフイック・クリアー(日本航空株式会社発行の機内誌千九百五十八年三月号)によると、キッセンジャーは小野医師との談話により、同医師がかつてジエフアソン医科大学で医学を修め、昭和三十三年夏東京に開かれる予定の国際胸部疾患会議の重要な関係者であることを知り、更に同医師より同人が岸首相と並んで撮影した写真が第一面に掲載されている前記パシフイック・クリアーの交付を受け、同医師を有力な医師と信じていたことが認められるから、その謝意の大であつたことは十分窺知できる。その上キッセンジャーは右談話で右会議はその運営に多額の資金を要するのであるが、資金は必ずしも潤沢でないことも聞知していたことも認められる。斯る状況下にあつては、右金額を単に治療に対する報酬としてのみ観察することは適当でない。また被告人は相当の資産家であるからその金額が多額になることもありがちである。しかも右金銭が贈られた時刻はすでに死体が解剖のため運び出された後であつて死因判定のため科学的メスの加えられることが決定的事実となつていることは前記認定のとおりであるから、小野医師に対する右金銭の交付をもつて検察官主張の如く一途に「もみ消し」のためと断定することには疑問の余地がある。

(C) アイ・キヤンノツト・テル問答

検察官は、被告人が問題の五月八日夜アメリカ本国に対するジヨーンズの死亡報告のことでグイル等と話していた際「本当のことはいえない。」と洩らして苦悩しているが、これは被告人に良心の苛責があつたことを示すものであると主張する。

第九回公判調書中証人竹田文子、第十四回公判調書中証人グイルの証言記載並びに第二十回公判調書人被告人の供述記載によると、被告人が五月八日夜アメリカ本国に対するジヨーンズの死亡報告のことでグイル等と話していた際「アイ・キヤンノツト・テル」といつたことは認められるが、前記グイル並びに被告人の供述記載によると、同人等の間でその際問題となつていたのはアメリカ本国にいる近親者にジヨーンズの死亡を早く知らせることとその知らせは被告人がこれをなすべきことであつて、右の発言はこれに関連してなされたものであることが明らかである。しかして被告人はジヨーンズの死亡という悲劇のニユースをどんな言葉を使つて知らせたらよいか判らないということで右の如き発言がなされた旨弁解している。遠き異境の地で近親者が自然死でなく異常な死方をした場合同行している親族がシヨツクを受けその悲劇をどんな言葉で本国に知らせようかと悩むことは人情の自然であつて、右の事実は他に明確な証拠すなわち右グイルとの談話では被告人が死因を与えたのでこれを知らせることが当面の話題となつていたなどというが如き事実について証拠がない限り検察官主張の如く被告人の不利益にのみ観察するのは妥当ではあるまい。

(D) ジヨーンズの死亡後被告人が帝国ホテルへの迅速な帰還を怠り、またその死体を見るのを避けたこと

検察官は、被告人は小野医師によつてジヨーンズの死が確認された当時東京温泉に行つていたのであるが、ジヨーンズの死を知らされながらすぐ帝国ホテルに帰らず、またホテルに帰つてもジヨーンズの死体を見ようとしていない。これは被告人がジヨーンズと義兄弟である特別の関係にあることやジヨーンズの死が共に手を携えて日本に来ている滞在中の出来事であることから考えて合理的理解の困難なものでまことに奇怪な事柄であると主張する。

前掲証人小野譲、同キツセンジヤー(第十七回公判調書)、第九回公判調書中証人田中和歌子、第十一回公判調書中証人永村神輔の証言記載、第二十回公判調書中被告人の供述記載によると、被告人は五月八日午後四時過頃東京温泉に赴き、ミス・トルコ田中和歌子を指名して同温泉三階のスペシヤルトルコ風呂(五号室)に入り、蒸風呂を出たばかりの頃キツセンジヤーからの電話で「タツド(ジヨーンズのこと)が死んだ。」と聞かされたこと及びその結果被告人は強い衝撃を受けひどく落胆して悲しそうな様子であつたが、田中和歌子に命じてスカツチ・ウオーター三、四杯を飲み、水風呂に入つたりしたうえ、右電話後約五十分位経つた頃同温泉を出て、街頭でタクシーを探し午後六時四十分頃帝国ホテルに帰着したことが認められ、また右帰着後被告人がジヨーンズの死体の傍に行かなかつたことは被告人自身認めているところである。

近親者の死がいかに悲しいものであつて、その死を知つた場合一刻を争つてその遺骸のもとに駈けつけその死を悼むことは、洋の東西を問わず、共通の人情である。しかるに、被告人がジヨーンズの死を知つた後でとつた行動は前記認定のとおりである。右の行動は、見方によつては、検察官主張の如く被告人がジヨーンズの死と関係があつたためではないかと疑をさし挾みうる資料となりうる事実である。しかし、被告人が迅速に帰還しなかつた点については、前記認定によつて明らかなとおり被告人がキツセンジヤーからの電話でジヨーンズの死を知らされたのは蒸風呂から出たばかりのところで、これにより被告人は強い衝撃を受けて居り、そのような場合平静を失した行動をとることは或る程度止むを得ないことであり、またその行動のうちには心身の平静を取り戻すためと観うる余地のあるものも存している。そして被告人は東京温泉を出た後帝国ホテルに速に帰ろうとしたが、来日後日が浅く地理不案内と英語が通じなかつたためタクシーを探して右ホテルまで帰るのに相当時間を要した旨弁解しているが、これはあながち無稽のこととして排斥はできない。また被告人がホテルに帰つて後ジヨーンズの死体の傍へ行かなかつた点については、第十一回公判調書中証人ロバート・ピー・クラウリー(ROBERTP. CROWLEY)(被告人の実兄)の証言及び被告人の供述記載によると、被告人は死者については普通の人と異つた考えの持主であつて、生前と著しく変貌した死体を見ることによつて故人の面影を破壊することをおそれその両親の死亡した際にも故ら死体を見ることを避けていることが認められる。これ等の事情を彼此考量すると、被告人がジヨーンズの死亡を知らされた後でとつた右行動は或はこのような考え方に基くかも判らないのであるから、他にこれを排斥する証拠のない限り、同行動を検察官主張の如くにのみ考えることは相当でない。

(E) 被告人がジヨーンズの死体解剖について反対したこと

検察官は、被告人はジヨーンズの解剖に反対し、小野医師に対し、できれば心臓病位でなくなつたというふうに診断書を書いて欲しいと述べているが、これは当日の被告人の言動と併せ考えるとき、そこに事実の真相を極力隠蔽しようとする被告人の意図が窺われると主張する。

第十七回公判調書中証人キツセンジヤーの証言記載(特に17以下)、第六回公判調書中証人小野譲の証言記載(特に101以下、226以下、113以下)、第十四回公判調書中証人グイルの証言記載(特に37以下)及び第十七回公判調書中被告人の供述記載(特に129以下)を綜合すると、五月八日夜被告人は小野医師から解剖の必要を言われた際これに反対し「できれば心臓麻痺で亡くなつたというふうに診断書を書いて欲しい」と言つたことが認められる。このことは被告人が犯行をかさねていたためその露見を恐れて解剖に反対したのではないかと不審を抱かせる事実ではある。しかし前掲証人小野譲の証言記載によつて明らかな如く同医師は当時ジヨーンズの死因は窒息死か心臓麻痺か脳出血かのいずれかであると述べていたのであつて、斯る場合には当為の問題としての検視等の法的の手続は別としてなるべく遺体を解剖に付さないで故国に送りたいと考えその種の行動に出ることは人情として理解できないことではない。

しかして前記証人小野(特に114)同グイルの証言記載及び被告人の供述記載によると、被告人の右反対はこの見地から出たものと認めうる個所がある。従つて被告人の右行為を検察官主張の如くにのみ解するのは妥当ではない。

(F) 被告人の右手に傷のないこと

ジヨーンズの頭部、顔面等に見られた如き傷が若し手拳殴打によつて惹起されたとした場合加撃者側に生ずることあるべき身体的傷害について、石田鑑定書(7頁以下)は、「一般に加撃者の手拳はそれが特に職業的に鍛練されたものでない限り、更に、一つ一つが正確にナツクルパートを以て加撃したものでない限り、その手拳は受傷するものと考えられる。一方被害者が静止の状態にある場合と相互の格闘下に受傷した場合とでは甚しく異ることも当然である。即ち格闘中に生ずる時は所謂ミスパンチがあり得るために、加撃者の手拳は、親指、環指、小指、更には手背、手関節にも挫傷をうける事が考えられる。仮りに被害者が殆んど静止した状態にあつたとしても越永鑑定書に見る程の創傷を与えた処の加害者の手拳はその皮下或は関節に肉眼的に認めうる傷害をうけるのは当然と考える」とし、清水鑑定書(21頁以下)も同趣旨の説明をしている。但しこの場合においてもその受傷が絶対に必要というのでないことは清水鑑定書の説明するとおりである。

ところで、被告人の当公判廷での供述によると、被告人は右利である。そしてジヨーンズの創傷の殆んどが左側に偏在していることはさきに認定したとおりであるから、若し被告人にしてジヨーンズに手拳殴打を加えたとすれば、右手による手拳が相当働いたことは推測するに難くない。しかるに、一件証拠によると、被告人の右手には何等の傷も認められないのである。この場合右手に受傷することが絶対に必要というものでないことは前記説明のとおりであるとしても看過できない事実である。

(G) 被告人はジヨーンズと親交のあつたこと

前掲証人キツセンジヤー、同グイルの証言記載及び被告人の供述記載を綜合考察すると、被告人はエール大学卒業後ジヨーンズ一世(T. A. D. JONES, Sr.)の下で働き、千九百三十三年(昭和八年)ジヨーンズの姉と婚姻し、その後も同所で勤め、他方ジヨーンズも学校卒業後父の下で働いていたものであること、ジヨーンズ一世は千九百五十七年(昭和三十二年)死亡したのであるが、ジヨーンズや被告人の妻に対する遺産の分割は極めて公平になされて居り、しかもその事業においても被告人とジヨーンズとはさきに第二の(一)で認定したとおりの関係に立ち、両者は共存共栄その間に何等対立すべきものの存しなかつたことが認められる。殊に被告人が昭和三十三年五月七日その妻に送つた帝国ホテル構内郵便局千九百五十八年五目七日十二時より十八時の日附印が押捺されている手紙によると、問題の日本への旅行では被告人とジヨーンズとはいよいよ親交を深めていたことを窺知することができ、その手紙には、「今度の旅行が他の点でどうあろうとも、とにかく、タツドと私との間の友情を固くしつつあることは間違いのない点であり、今後どんなことがあろうともこの友情が二人に難局を切り抜けさせてくれるだろう」と記載している程であり、また旅行中ジヨーンズの行動についての叙述についてはその行間に親近感の溢れているものがある。しかして検察官は被告人が酔余その主張の如き犯行を行つたものと主張するが、一件証拠によつても、被告人が当夜その思慮を失する程酩酊していたと認めることはできない。そればかりではなく、前記の(二)の(2)に認定した同年五月八日の午前三時三十分頃被告人及びキツセンジーが各自の寝室に引取つた前後の情況に徴しても、当時被告人とジヨーンズとの間に酔余の偶発的争闘を惹起するような何らかのトラブルが存したものとは認められない。

(ニ) 以上の認定事実によると、被告人に対しては疑えば疑える事実も存するが、他面これを減殺する事実も存しているので、結局、検察官の立証によつては、公訴事実を肯認するまでの心証は惹起しない。

(3)  結論

果して然らば、本件は犯罪の証明がないということになるから、被告人に対しては刑事訴訟法第三百三十六条に則り無罪の言渡をなすべきものである。

(裁判官 八島三郎 西川豊長 半谷恭一)

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